夏文庫

世間様より2テンポくらい遅れて話題にしますが、『火花』、売れに売れているようですね。
“売れに売れている”、素晴らしく甘美な響きです。
羨ましい。
閑話休題、しばらく目立った話題の無かった出版業界にとって久しぶりの明るい話になっているようで、喜ばしいことだと思います。

とは云うものの、恥ずかしながら実はまだ件の作品は読んでいません。
又吉氏の本は以前共著で出ていた『カキフライが無ければ来なかった』は持っていてなかなかの良作だと思いましたし、
『火花』のレベルも水準以上は期待できるとは思っていますが、なぜか手が出なくて。

読書家とは名乗れないまでも別段本が苦手なわけではなく、話題の小説や話題の映画、特に理由もなくなんとなく後回しにしてしまう接客業の人間にあるまじき懶惰な性分なのです。
大ヒット作品を毛嫌いしているとか、そういうことはありません。
ジブリ作品もバックトゥザフューチャーも好きですよ。
ただ、どうにもだいたいがタイミングが合わないと言いますか…

さてそんな体たらくなのですが折角の『火花』ブームに便乗して、Euphonica的に夏向けの本をご紹介するのも一興かというのが本稿の主旨です。

衣類に限らず、聴きたい音楽など季節ごとに気分が変わることはないでしょうか。
店主は毎年その時期が来ると読み直したくなる本というものがありまして、茹だるような蒸し暑さ、耳に響く蝉時雨、蚊遣り線香の煙の匂い、そんな時候にぴったりと思われる読み物を厳選してご紹介します。

ここで張り切りすぎて斎藤緑雨や岩野泡鳴を挙げても誰も喜びませんし、入手が容易なものでないととも思いますので、
一般的な認知度の低過ぎる作品は選考から外し、且つ文庫本のみで選定致しました。

1.谷崎潤一郎/ 陰翳礼賛(中公文庫)
2015-08-10 12.59.32
言わずと知れた美の聖典です。
闇、翳というものが日本的な美意識にどれほど大きな意味を成しているのかがきわめて易しい言葉で述べられています。
決して格調高い文体ではないのですが、それもこの名著が幅広く読まれる一つの理由かと。
観念的な話をだれもが解かるように伝えるには高次元の文章構成能力が必要で、そんな文豪谷崎の技巧を手軽に美味しく味わうには最適の書ではないでしょうか。
所謂美術についてのみならず食や生活様式に亘って言及されながらスノビッシュな嫌味を感じさせることなく読者を心地好い暗黒の世界に誘ないます。
当店内の薄暗さは、店主が若い時分にこれを読んで感化されてしまった所為かも知れません。
私は、吸い物椀を前にして、椀が微かに耳の奥へ沁むようにジイと鳴っている、あの遠い虫の音のようなおとを聴きつゝこれから食べる物の味わいに思いをひそめる時、いつも自分が三昧境に惹き入れられるのを覚える。茶人が湯のたぎるおとに尾上の松風を連想しながら無我の境に入ると云うのも、恐らくそれに似た心持なのであろう。日本の料理は食うものではなくて見るものだと云われるが、こう云う場合、私は見るものである以上に瞑想するものであると云おう

2.永井荷風/ 日和下駄(岩波文庫『荷風随筆集 上』より)
2015-08-10 12.59.22
荷風といえば『つゆのあとさき』『濹東綺譚』ですが、これらは真夏というよりは梅雨時向けのため除外しました。
都市開発に伴いどんどん破壊されていく江戸の名残を路地裏の目線で追い綴った随筆集です。
熱い怒りではなく平熱の諦観で、散り行くからこそより募る別れ難さを丹念に描いています。
荷風は文章の構築力という点では今一つなのですが(特に一人称の主語の置き方が若干引っかかることがあります)、高い教養に裏打ちされた圧倒的な語彙力と情感豊かな描写力で、実にじっくりと読ませます。
それにしても新国立競技場を例に挙げるまでもなく景観破壊も顧みぬ無軌道な乱開発は、この時代からずっと変わらない近現代日本の宿痾なのですね。
ついこの間も麻布網代町辺の裏町を通った時、私は活動写真や国技館や寄席などのビラが崖地の上から吹いて来る夏の風に飜っている氷屋の店先、表から一目に見通される奥の間で十五、六になる娘が清元をさらっているのを見て、いつものようにそっと歩を止めた

3.樋口一葉/ たけくらべ(岩波文庫『にごりえ・たけくらべ』より)
2015-08-10 12.59.01
5000円札でお馴染み一葉の代表作であるにも拘らず、雅俗折衷体のためかその知名度の割に現代はさほど読まれていない作品でもあります。
姉同様遊女になる予定の勝気な少女、その同級生である内気な僧侶の息子、少女と仲の良い質屋の腕白少年たちが、子供の社会から巣立ちそれぞれの社会構造に属する大人になり、やがて完全に別れてしまうであろうその第一歩の時間を清冽且つ瀟洒な文章で書き綴っています。
現代の説明過多な小説の作り方からは考えられないほど抑制された描写は、読み手にも高みからの見物を許しません。
待つ身につらき夜半の置炬燵、それは恋ぞかし、吹風すゞしき夏の夕ぐれ、ひるの暑さを風呂に流して、身じまいの姿見、母親が手づからそゝけ髪つくろひて、我が子ながら美しきを立ちて見、居て見、首筋が薄かつたと猶ぞいひける、単衣は水色友禅の涼しげに、白茶金らんの丸帯少し幅の狭いを結ばせて、庭石に下駄直すまで時は移りぬ

4.織田作之助/ 夫婦善哉(講談社学芸文庫)
2015-08-10 13.30.03
妻子持ちのダメ男と、彼と駆け落ちした若い芸者のふたりが、次々と事業に失敗し喧嘩を繰り返しつつも結局別れられずに寄り添って逞しく生きていく…とあらすじだけ書くとどうにも陳腐なのですが、戯作朝のリズミカルな文体がこの類の話につきまとう生臭さやドロドロ感をかき消して、妙に爽やかな読後に導きます。
年中借金取が出はいりした。節季はむろんまるで毎日のことで、醤油屋、油屋、八百屋、鰯屋、乾物屋、炭屋、米屋、家主その他、いずれも厳しい催促だった。路地の裏で牛蒡、蓮根、芋、三ツ葉、蒟蒻、紅生姜、鯣、鰯など一銭天婦羅を揚げて商っている種吉は借金取の姿が見えると、下向いてにわかに饂飩粉をこねる真似をした

5.フアン・ルルフォ/ ペドロ・パラモ(岩波文庫)
2015-08-10 12.59.41
日本文学ばかりなのも芸がないので、メキシコ文学を一点。
ペドロ・パラモという名しか分からない父親を捜しに彼が住んでいるという町に辿り着いた主人公でしたが、父親はすでに死んでおり、さらにこの町は生者と死者の境がなく…という幻想的な小説です。
登場人物の人間性、舞台の描写、すべてが徹底的に乾いており、命の尊さ云々といったウェットな概念が前提として存在していません。
さらに物語の構造も現在進行形かと思いきやそうでもなかったりと、時系列すら交錯しています。
こんな特殊な小説でありながら、読者に不思議と負担を与えません。
あっという間に読みきってしまうことでしょう。
物語も短いため、何度も何度も繰り返して読むことをお勧めします。
きっと読むたびに発見がある筈です。
『おれたちのすぐ上を誰かが歩いてるみたいだ』『もう恐がらないでいいよ。もう誰もおまえさんを恐がらせることはできないさ。楽しいことを考えるようにした方がいいんだよ。うんと長いあいだ土の中にいなくちゃならんのだからね』

思いついた順から5作挙げてみましたが、
この中の一冊だけでもどなたかの読むきっかけになれば幸いです。

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