おしゃれめさるな

先日さる若い方からSTYLERで投げかけられた一つのご質問が、まことに考えさせられるものでした。

「オシャレをする為に、まず、買うものは何ですか?」

これに対し当店のみならず全国の各店様それぞれの視点から様々な回答が出ており、それらを読むだけで楽しめるような活況を見せています。
他店の皆さんも心の奥底に眠るサムシングを刺激されたご様子。
詳しくはSTYLERをご参照ください。
https://facy.jp/article/men/news/finery-euphonica-555/

この問いにきちんとお答えするには、一度原点を見つめなおす必要がありました。
そもそも、お洒落って何でしょう。

語源としては、「晒(さ)れ」=日に晒されて漂白される→さっぱりした様子、或は「戯(さ)れ」=たわむれる→洗練されること、機転が利くこと、これらと心がさっぱりして物事にこだわらないことを表す「洒落(しゃらく)」とが混ざり、現在の言葉に成ったようです。
言葉のルーツを追ったところで本質論には辿り着けない、ということだけは判りますね。

それこそ「お洒落」という言葉から聯想するものが十人十色です。
外見をめかしこむこと?トレンドセッターであること?それとも?
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身嗜みに気を遣うことであるのは確実なのですが、それでも結果的にお洒落な人とそうでない人が発生します。

STYLERで当店が回答したように、定義が何であれお洒落か否かという判断には
何かしらの比較のための基準が必要です。
ただしどうしても数値に置き換えることはできませんから、その相対評価は自ずと感覚的な判断に左右されることになります(ふと思ったのですが「お洒落である」が「お洒落でない」を生み出している可能性も?光なくして翳は翳としてその暗さを認識されず、光の存在あって初めて翳が表れる…横道に逸れて長くなりそうなのでこれについては後日ゆっくり考えてみます)。

一方で逃れようもなく我々は社会的生物です。
個人個人の存在がどれほど際立ったところで、ある一定の共通意識をもったコミュニティから完全に外れて生きることはとても難しく、いったい人類の歴史延べ何兆人か存じ上げませんが、その上で完全なるオンリーワンの発想などそう簡単には出てはきますまい。

ですので主観的な判断も、各々の趣味嗜好があるのは前提として大多数の人が好感を抱くか否かには大きく分けることができます。新しく美しい価値観はときに大衆やアカデミックな立場から理解されづらいものですが、’80年代にパリで賛否両論が巻き起こったギャルソンやヨウジの黒い衝撃など、結果として賛が多かったからこそ伝説となったわけです。

また一から十まで感覚に依存すべきというものでもなく、伝統に基づくルールであったり、ブランドの力(=確立された評価)、服と体をより効果的に見せるロジックなどが判断の手助けとなる評価基準であるのは間違いありません。

そういった背景から着こなしハウツー本が売れたりしているのでしょう。
確かに、そもそもお洒落するってどうすりゃいいんじゃというスタート地点(これをお洒落偏差値25~30とします)から一気に偏差値50近くまで引き上げるには、こういった論理的テクニックを習得するのが最も効率的です。

とはいえまださらにその先にいる世の洒落者たちとは依然として隔たりが存在します。

これは蓋し知的好奇心の幅と奥行きの差ではないでしょうか。

装いについてのみならず、音楽、文学、映画、政治、スポーツ…それは何と限りません。
義務でなく楽しみとして常に興味のアンテナを張りめぐらし、今生きる時代の気運を能動的に摂取しつつも確固とした自身の世界観を丁寧に築き続ける人は魅力的です。

結局は何を着るかでなくだれが着るか。
これは顔や体型の話ではなく、上記の如く磨かれ続ける感性と教養の話です。
少なくとも装いに於ける個性というのは本来の性質に加えどう研磨されてきたか、そのプロセスを表していると思います。

「人は外見でなく中身だ」と嘯き身嗜みを軽んじて立派な内面を持つ人はおらず、内面に優れ身嗜みに無頓着な人はわざわざそんな自己肯定の言い訳はしないもの。
教養深く感性の鋭い人物は人が他者を判断するにあたっての外見の重要性を理解しており、そもそもそのセンスが醜悪を好まないでしょう。
則ち、モノより人が上に来るからこそ、逆説的にモノ(何がだれに選ばれるのか)が問われるという図式が成り立ちます。

つまりはお金とテクニック”だけ”では最終的には解決できないということです。

洋服屋としてこんなことを言ってしまうと身も蓋もないのですが、たとえば当店で扱う品はどれも自信を持ってお勧めできる逸品揃いという自負は当然ありながらも、モノだけでお客様をお洒落にすることはできません。

もとよりお客様をお洒落にしてやるなんぞ恐れ多いことは考えておらず、当店の役割としてはモノの媒介という原則的な仕事と同時に、それ以外にお客様が今まで出会うことのなかった視点、楽しみ、そういった何かしらの感性への刺激を何かひとつでもご提供できれば、或はせめてそのきっかけになれればと思っています。

もちろん上記お洒落論は店主個人の意見ですからこれを絶対だと人様に押し付けるつもりは毛頭ありませんし、各同業の皆様、またそうでない方もそれぞれのご意見があって然るべきです(「お洒落とは何か」と考えること自体がお洒落でない、という考え方もできます)。
ただ、時には原点に立ち戻ってこんな由無しごとの思索に耽るのも一興かと。

さて当店にまだいらしたことがない読者の方は「こんな偉そうに講釈垂れて本人がどれだけのものなのか見極めてやりたいものだ」と当然お考えになるでしょう。
すでに店主をご存知のお客様は「アイツ・・・」と呆れて苦笑いされたかも知れませんね。

偉そうに書けるのは自分のことを棚に上げているからです。
常に自己省察まで要求されたら何も書けません。
どうか私のことだけは生温い目で見守ってください。

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