(この記事は2017年8月にFACYにて掲載されました。FACYサービス終了に伴い、先方の許諾を得てアーカイヴとして前編・後編をまとめて転載しています)
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居酒屋で聞く、おじさんたちの昔話
そういうのもたまにはいいじゃないですか、ということで今回はお馴染み横浜・仲町台の洋品店 Euphonicaの店主である井本さんからの持ち込み企画です。
社会現象を生み出すほどの隆盛を誇った90年代のファッションシーンについて、90年代を学生時代にリアルタイムで経験しつつも、立場やスタンスが違うお三方(それぞれこの日が初対面!)の体験談をもとに、メンズ・ファッションの思い出話をしながらそれらを紐解いていきます。意外と語られない“消費者目線”での90年代の話をぜひお楽しみください。
メンバー紹介
井本 征志
洋品店店主。1978年神奈川県横浜市生まれ。大学卒業後さまざまな業界の職を経て、2015年地元である仲町台にEuphonica 開店。
Twitter:@Euphonica_045
山田 耕史
ファッションアナリスト。1980年兵庫県神戸市生まれ。大学卒業後服飾専門学校に入学、渡仏。帰国後ファッション企画会社、ファッション系ITベンチャーを経て現職。ブログを中心に誰もが簡単にファッションを楽しめる情報も発信中。
Twitter:@yamada0221
齋藤 大介
偏屈アメカジ・マニアの一般サラリーマン。1979年山形県米沢市生まれ。エンタメ関連のお仕事。たまたま上記2名とTwitterで仲良しだったためにお呼ばれ。
Twitter:@saito_d
プロローグ
編集部 すみません、斎藤さんが着ているTシャツは何ですか?
齋藤(以下S) 野茂Teeです。
編集部 野茂Tee?あ、本当の野茂なんですね(笑)
S ただのマイブームです(笑) 90年代当時も(記念品としては人気でしたが)ファッションとしてはまったく流行ってない。
山田(以下Y) でも、普通に着てましたよね。
S 普通の人たちがね。
井本(以下I) ちなみに「マイブーム」って言葉も90年代くらいでした。
編集部 その言葉もなんですね(笑)
S みうらじゅんが言葉を生み出して広まり、カジヒデキも曲にして。『ラ・ブーム〜だってMY BOOM IS ME〜』ってね。
I それが97年。なんかこれ学者の会合みたい(笑)
一同 笑
ファッションの目覚め〜エアマックス狩り〜
Y では、まずは各々のファッションの目覚めから聞いていきましょうか?
S この3人、 見事に世代は一緒なんですよね。
I 昭和54年組(山田、齋藤)と53年組(井本)ですね。だから、大体ファッションのスタートは似てるんだけど、各々生まれた場所も違うのできっかけも違うはず。齋藤さんが山形、山田さんが神戸、僕が横浜なんですよね。
S 山形県は山形市が県庁所在地で、そこにお店が集まってるんですけど、規模はたかが知れていて。僕が買いに行ってたのは仙台ですね。仙台は当時からすごかったですね。
I 仙台は良いなあ(笑) ちなみに、僕は洋服に目覚めたはっきりとしたきっかけがあって、それが91年。『スラムダンク』ブームがあって、バッシュが流行ったじゃないですか?で、クリスマスプレゼントで親に「バッシュなるものを買ってくれ」と言って、ノーブランド品を買ってもらったわけですよ。それを意気揚々と履いていったら、同級生からは「ダッサ!何それ!」と。もう散々やられちゃって、人はこれほどまでに持ち物ごときで判断されるのかと(笑)
一同 笑
I そして、知らないということはこんなに恐ろしいことなのかと、身をもって知ったわけです。
S 怖いとか、悔しいとかそういう感じ?
I 悲しみ(笑) だから絶対に「知らない」を潰しておこうと。誰よりも知らないを潰しておけば、二度とこんな目には遭わないんじゃないかと。根がオタクなんで、そうして知るところから始まって。このときにちょうどスニーカー・ブームとジーンズ・ブームが来てくれたんで、『Boon』読んだり、そういったところからだんだんと。まあ、アメカジスタートですよ。
編集部 なるほど。山田さんもアメカジがスタートなんですよね?
Y ファッションを意識しはじめたのは小学校5年くらい。きっかけはジャージですね。周りの友達がみんなジャージを着ていたので、それに影響されて生まれて初めて親にねだってアシックスのジャージを買ってもいました。でも、それがファッションの目覚めかといったら微妙で。小学生って文房具にハマったりするじゃないですか。ジャージはそれの延長線上みたいな感じでしたね。本格的にファッションを意識しはじめたのは96年のエアマックスブームですね。狩られました。
I 狩られたんですね?
Y 狩られました。正確に言うとエアマックスをネタにカツアゲされたんですけど。
I いや、でも本当に狩られるし、そうでなくとも盗まれる。僕もエアマックス95じゃないのにマラソン大会の直前に盗まれたことがある。切実に走れなくて困っちゃって(笑)
S 田舎なんで、下手したら家から盗まれてたやつもいた。玄関も開いてたりするんで、気付いたら「ない!」みたいな。履いてる奴がいたら、田舎だからすぐ噂が広がっちゃう。
I NIKEならパクるみたいな風潮ありましたね。さっきのマラソン大会とは別の話で、中学校のとき下校時にNIKE盗まれてて、取り敢えずその辺にいた先生に報告したら一言「お前が悪い。NIKEなんか履いてくんな!」。
S 履いていっても、教室に置いてましたからね(笑)
編集部 本当にエアマックス狩りってあったんですね。自分の中では都市伝説的な感じだったんですが……(笑)
一同 ガチ。
I なんかね、ありふれてた。当時は。
一同 笑
I 今の若者はそんなことしない。オヤジ狩りもしない。本当に素晴らしいですよ(笑)
Y ちなみに、当時僕が履いていたの、エアマックス トライアックスっていうモデルだったんですけど。
S 出ました、トライアックス。では、Boonの復刻持ってきたんで見ますか?
I では、僕はオリジナルを持ってきたんで、98年のBoonと比較しましょうか。でも98年だとね、だいぶマイルドになっちゃってるんですよ。もう裏原系に寄ったころなので、Boon独特の下品さ、汚らしさは少ない。
Y あ、これねこれね。持ってた、持ってた。
S まさにこのページ(AIR MAXの一覧ページ)を覚えてて。これ見ながらどれが良いかをクラスのみんなで喋ってた。
Y (雑誌を見ながら)マイナーモデルであるトライアックスですらプレミアが付いていましたね。定価が12,500円くらいだったと思うんですけど、15,000円くらいで購入しました。ちなみに、今日僕が履いてきたのが、AIR MAX 270です。
I あ、Boonの表紙で広末が履いてたやつ。
Y 当時、欲しかったんですけどあまりにプレミアが付いていたから買えなくて、数年前に復刻されたのを購入しました。妥協でトライアックスを買ったんですけれど、それでカツアゲされるっていう。
I エアマックスって名前が入ってるとなんでもよかったんですよね。齋藤さんはエアマックスは?
S 当時は履いてなかったですね。そもそも売ってないしお金も無いしで、買えなかった。
I そっか、中学生だと普通に買えないしね。
編集部 店頭でもすぐなくなっちゃうんですか?
S 一瞬で。スポーツ用品店の入荷日に行ったことがあるけど、業者が全部かっさらっていくから、なんとか買えたとしても余り物だけみたいな。業者が目の前で「棚買い」してるんだから。
I 当時は全体的にモラルが低かったですね(笑) 雑誌の広告に転売が載ってるのが普通だった。
Y それこそ、Boonとかにも。これにもあるんじゃないですか?
S さっきの価格も全部、プレミアだよね。基本的にハイテクスニーカーは定価が割れることはなかった。adidasだろうとなんだろうと、ハイテクスニーカーだったら何でもいいみたいな(笑)
I こういった広告を見て、お小遣い貯めて、握りしめてアメ横とかに行くわけですよ。
S 僕のファッションの目覚めも、よくよく考えたら靴なんですよね。小学生の頃から靴屋に行くのが好きで、よく眺めてたんですよ。ただ、それはまだファッション的な見方ではなかったけど。そのうち周りの友達が色気づいてきて。中学3年のとき、地元に古着屋が1軒できて、そこでシャカシャカのサテンのスタジャンを買ったのが始まりで。
Y ファッションの入り口は全員アメカジだったんですね。
S そのときはアメカジだけでしたもんね。93年あたりのヴィンテージ・ブーム。我々の上の世代で渋カジがあり、それが終わったものの名残はあって。やっぱ当時はアメリカ寄りだった。そこからヴィンテージに行ったんだと思う。あと僕は、地元にたまたま古着屋が1軒できたっていうのは大きかったでしょうね。店主は元『ギターマガジン』の編集者だそうで、地元に帰ってきたのかな? ロックのサンプルのレコードとかもいっぱいあって。
I 複合的にやってたんですね。そういうのがなあ、横浜はなかったからなあ(笑) 羨ましい。
グランジ 〜カート・コバーン〜
S その後、人それぞれ道は分かれますが、みんな世代的に入口はアメカジだった。そこがバブルだった感じはありますね。音楽もバブルだったし、モノがひたすら売れてた。
I 94年なら『asayan』と、『FINEBOYS』の増刊持ってきました。あとこの『POPEYE』、浜崎あゆみが水着で出てるという、結構貴重な資料です(笑)。浜崎あゆみと長瀬智也が僕と同い年なんで、ちょうど僕の世代がこうやって表舞台に出てきた頃。その前に小田茜(*1)がいたんですけどね。
Y 小田茜ね、いたな〜。
S 懐かしい(笑)
I (雑誌見ながら)意外と今着れそうなものが。
S 見事に20年周期でね。でも今思うと、忘れ去られたブームもあったなと思ってて。「フェミ男」なんか特にそう。
I 本当そう。今はまったく話題にならない。あと、このころの雑誌といえばスタイリストとかが一般人を斬る辛口のファッション批評。今やったら炎上するやつ(笑) これは芸能人ぶった斬りですけど、素人も遠慮なく斬り捨ててたんで。
一同 (笑)
I 90年代以前は日本のミュージシャンがダサかった時代で、このPOPEYEのスタイリストへのインタビュー記事によると、ミュージシャンに着させるって言うとメーカーがスタイリストに服を貸してくれなかったと。それくらいミュージシャンがダサくて、ファッションとつながってなかった。ところが90年代に入るとそこがリンクするようになって、2000年代でなぜかまた離れていったっていう。どうもこれ見ると、このとき特有の現象だったのかなって。
S 70~80年代までは、ミュージシャンはいかにもミュージシャンの格好をしてた。LED ZEPPELINならばああいうベルボトムを穿いて。ジミヘンとかもそう。80年代だったらニュー・ウェーヴ(*2)があって、ヘヴィ・メタルがあって。一般的なお洒落じゃなくて、あくまでステージ衣装だった。それが世間的に変わったのは、やっぱりNIRVANAからなのかなあ。
I まあ、カート・コバーンは大きいでしょうねえ。
S アーティストが普段着でステージに上がり始めた。パンク系、ハードコア系の人たちがTシャツや短パンといったラフな普段着でステージに上がるってのは、それまでのロックシーンに対するアンチテーゼだったわけ。カート・コバーンも、もともと貧乏だからスリフトショップで安く買えるネルシャツを着て、ボロボロのジーパンを穿いて、その辺で売ってるジャックパーセルを履いてただけ。ただ彼はたしかに抜群にセンスがあったと、奥さんのコートニー・ラヴは言ってましたね。ファッション・アイコンとしてのピークは『アンプラグド』のとき。モヘアのカーディガンね。
I あとモヘアといえばあれですよ、死んだ後のライブ盤。
S 『フロム・ザ・マディ・バンクス・オブ・ザ・ウィッシュカー』。
I それ!
S モヘアと、太いボーダーのセーターっていうのがカート・コバーンのイメージ。僕らは赤×黒の太いボーダー見ると、カート・コバーンにしか見えない。ちなみにあのセーター、ファンから奪ったものらしいですね。
編集部 へ〜。
S 奪ったのはコートニー・ラヴ。で、カート・コバーンに着せたっていう。
I 川崎のチッタでNIRVANAがライブやったときに、川崎の丸井でパジャマ買って、それ着て歌ったっていう逸話もある。だから川崎の丸井ってNIRVANAファンの隠れ聖地。
S それは知らなかった!
I 僕の知ってるNIRVANAファンは川崎の丸井に行って、でもパジャマ買うわけにもいかないし(笑) 何もせず帰るみたいな。
S さっきの話だけど、普段着でステージに上がるようになったっていうことだよね。パジャマは普段着以下だけど!
I そういえば僕の弟もカート・コバーンに影響されて、一時期ボタンフライのボタンを閉めずに歩いてた。
一同 笑
I パジャマとか股間全開でもかっこいいと錯覚させる、それがグランジ。
S でもモード・ブランドがそれを真似しちゃって、ファッション・ビジネス化した。それで逆にカートのファンはそのスタイルから降りちゃった。
I ブランドが関わると降りるんですよね。「商業にするな」ってね。そんなカートも亡くなっちゃって、友人は喪に服してた。学校休んで(笑)
S 僕は読売新聞のお悔やみ欄で見ました。中学3年の頃に、「米のロック歌手 カート・コバーンさん死亡」って。当時はもちろんテレビでも取り上げないし。だからお悔やみ欄で「米のロック歌手カート・コバーンさん、拳銃で自殺」って見て、すごい衝撃を受けた。
一同 苦笑
*1 小田茜:女優。1990年全日本国民的美少女コンテストでグランプリ受賞。
*2 ニュー・ウェーヴ:音楽のジャンル。もともとはパンクロックを指していたがのちにポスト・パンクや電子音楽などの影響を受けたロックを指すようになり、その範囲は非常に広い。
フェミ男とVボーイ
編集部 まだ90年代の半ばですね。
S 90年代初頭に渋カジからチーマーに流れたあたりはよく知らないんで。B-BOYも通ってないし……。むしろ、中学生の頃は「フェミ男」ですよ。古着ブームと同時にあったのがフェミ男じゃなかったかなっていう感覚がある。
I フェミ男は94年ごろ火がついて、95年くらいにマスに落ちたんですよ。中性的というよりももっと女性的な感じ。
S いしだ壱成と武田真治がカリスマで。ピッタピタのTシャツを着て、「へそ出しルック」でね。眉毛が細くて、ネックレスをつけて。いま考えると本当に気持ち悪くて、絶対にリバイバルしないだろうなって思う(笑) いしだ壱成もその後のインタビューで「着せられる服のサイズがどんどん小さくなっていった」って言ってた。
一同 笑
S やっぱり周りからやらせられてたんだね。しかも彼は元々ガリガリなんで。
I 着れちゃうんですよね。
S 彼はあまりにガリガリで、メンズに着れるものがないからレディースを着てみたら良い感じだったっていうのが最初らしくて。でもフェミ男も気付いたときには流行ってた感覚ですね。僕が意識的に洋服を見るようになったのがちょうどそれくらいのときなので、経緯までは見ていない。
編集部 これはどれくらい続いたんですか?
I 1〜2年くらいかなー。だって、もう96年には武田真治がボロボロのジーパンによれたTシャツ着てて。
S 「なんだったんだよ、今までのは!」ってね(笑)
I いしだ壱成はもうちょっと引っ張ってた気が。いしだ壱成主演で『ユーリ』っていう藤原ヒロシが手掛けたサントラだけ有名な映画があるんですけど、それが96年。でもそのころはそこまでフェミではなかったかも。
編集部 フェミ男って言葉にはピンときませんでしたが、ああ、あれかと何となく理解できました。
S やっぱり90年代、忘れ去られたブームっていうのがいっぱいありましたね。「キレイめ」とか、まさにそう。
I 「Vボーイ」とかね。
編集部 Vボーイが全く分かりません(笑)
I 「Valuable Boy」。元々、Vゾーン広いからV男って言われてて。
編集部 ヴィジュアル系じゃないんですね?
I Vゾーンのはず。胸元V字にはだけて、今で言うホストみたいな出で立ち。それで97年に専門誌ができて、Valuable Boy、価値があるボーイっていう後付けの定義をして。Vボーイの動きは96年ごろから。高3のときに、遠足に黒いスーツ着てきた同級生がいた。ちょっと大きめのストライプの4つボタンスーツに、すんごい赤いシャツ着たりして。そんな感じのが当時大学にいっぱいいたんですよ。
ヴィンテージブームとヤンキー
S ヴィンテージ・ブームの頃は本当にウンチクが重要でしたね。ここを経験した人っていうのは、後にも引きずるんですよね。古着のタグを見て年代を判別したり、ディテールの違いに価値を見出して、プレミアがついて。そういうモノの見方で、今も洋服を見てる。
I Boonの誌面でも、虫眼鏡で腰の裏のLeeの織りタグを糸の本数チェックして、何年製って判別してたり(笑)
S 当のアメリカ人がそんなこと知らないから(笑) 日本人だけがそういうとこに目をつけて、やたら詳しかった。
I 当時Boonの編集者だかライターさんが、Levi’sの工場に行った時にスカウトされたらしくて。「お前、誰よりも詳しいからうちで働かないか」って(笑)
S 当時は、ダウンタウンの浜ちゃんがファッションリーダーでね。
I あと、前園(*3)とか。あと、これ95年ですけど無印良品の顔洗うときのヘアターバン。これ当時の人気モデルのユアン(*4)が流行らせて、すっごい売れて。
S 後にふかわりょうがやってたやつ。
編集部 あ〜。
I あれね、僕もした(笑) 学校でやってた。あれが一般的に流行った。
S 流行った流行った。ストリートスナップはあればっかり。
I あれは何だったんでしょうね(笑) あれを頭に装着して、ポケベルのクリップをズボンのポケットに留めて、腰穿きにカルバン・クラインっていうのが、サッカー部辺りのモテてるやつの格好だった。
S 腰穿きはもちろんヒップホップからの流れで。諸説ありますが。
編集部 どれくらいの腰穿きなんですか?
I 行き過ぎる前だから、そんなに。パンツのカルバンクラインロゴがはっきり見えるくらい。
S どんどん落ちてった感じありますね。
I 最終的にはね…太ももくらいの位置まで。でもそれはもっと先の話。古着だとウェストが大きいのに、レングスが短いとかそんなのも多いので、そういうのをごまかすために落として穿いてる人もいた。それがいつしか、あれがかっこいいってなって、制服にも転化して。
S ちなみに僕は今でも腰穿きしてますもん。逆にハイウエストでは穿けないですね。腰骨から下じゃないとお腹も苦しいし、落ち着かない。それで育ってきたし。
I だから、僕らはお腹が出てる(笑) でも、当時はアンチだった。
S わかる。制服は逆にピチっと穿いてましたね。
I もうそういうイケてる枠のアンチで、学ランのカラーはもちろん入れて校則通りのきっちりした格好、でもそこにひっそりと「wannabe(ワナビー)」(*5) のローファーブーツを合わせて履いてる自分に酔いしれてた(笑)
S あと、やっぱりヤンキーが腰穿きだったんで。ヤンキーとの差別化を図らなきゃいけなかった。
I ヤンキーとスケーターのボーダーラインが曖昧な時代だった。どっちも基本的には不良路線なわけです。で、僕は不良ではなかったし、寧ろそういうのに反発していた。
S ここに1人、ヤンチャ側の人が欲しかったですね。
Y 狩る側が(笑)
S 狩る側の意見もちょっと欲しかったですね。でも、悪い奴らがどこにでもいたっていうのは、あの時代が最後かもしれない。あんなにヤンキーが流行ってたのは僕らの世代が最後じゃないですかね? 僕らの前の世代の「チーマー」もそうだし、お洒落ってヤンキーのものだったんだよ。さらにその前の世代のサーファーだって不良なはずだし。昔は不良がかっこよかった。ところが2000年代以降、不良がダサくなってきた。
I ファッション的には渋谷系の人たちとかは結構アンチ不良だった。実際はともかく、表面的にはね。僕らよりもっと上の世代、40〜50代のファッション関係の人は見た目からして不良っぽい人が多い。
S そりゃやっぱ、その世代の人は「ちょい悪」になるわって話ですよね。
Y 僕が中学、高校のときは周囲にあまりヤンキーとかいなくてそういう文化とは無縁でしたね。
S 羨ましい。日々、ビクビクしながら街を歩く経験をしてないのが。
I ヒリヒリしてましたよね(笑)
*3 前園:前園真聖。元サッカー選手。1996年アトランタオリンピックにてロベルト・カルロスやリバウドらを擁するブラジル代表を撃破した「マイアミの奇跡」の立役者。アスリートとしてのみならず、そのワイルドな風貌やヴィンテージ古着の着こなしにも憧れる少年たちが多かった。
*4 ユアン:ユアン・レイノルズ。元ファッションモデル。中性的な整ったルックスで人気を博し、当時多くの誌面を賑わせた。女性モデルのアンジェラは実妹。
*5 wannabe(ワナビー):英国のデザイナー、パトリック・コックス氏の手掛けていた革靴ブランド。氏のメインブランドである「パトリック・コックス」のセカンドライン(wanna be Patrick Cox=パトリックコックスになりたい)という位置づけだったが、1994~5年ごろスクエアトウのローファーのシリーズが大ヒットし、「パトリック・コックス」よりも人気のブランドとなった。
モードの流れ
S そこにモードの流れがきて。この当時、モードを取り上げてた雑誌ってどこですかね?
I 『装苑』ですよ。
S 当時は読んでなかったっすわ(笑)
I あと、『MR』(*6)とか『流行通信』(*7)。あ、どっちも持ってくれば良かった…!
S 手に入れやすくお手軽で人気があった「ABAHOUSE」とか「TRANS CONTINENTS」(*8)とかもモードな方向性だった。BEAMSのオリジナルも、90年代半ばはモードな方向で。一気にモードに流れたときがあった。当時の僕もアメカジから一旦そっちにいったんですよ。当時のABAHOUSEが大好きで。
I 僕はトラコンから。ジャミロクワイが好きだったので、ジェイ・ケイがトラコン好きって語っていたインタビューを読んだ影響もあって。そういえば94年って意識して音楽を聴きだした頃で、それまで米米CLUBとかWANDSとかの所謂ヒットチャートものを聴いていたところから、オリジナル・ラヴにヤラれて、音楽にもお洒落とか趣味の良し悪しという概念があることを知った。
S 90年代半ばはマジでトラコンが主流だったんですよ。これも今では忘れられている事実。
I だって、当時の人気店の筆頭株がアローズ、ビームス、シップス、トランスコンチネンツですよ。セレクトショップでもあって、すごい勢いがあったのに、いま全く話題になってない。
S 「5351 POUR LES HOMMES」もすごい好きで。同じ系列のABAHOUSEより尖ったブランドだった。襟がこんなデカいのがあったりとか、デザインも凝ったブランドで。レディオヘッドのトム・ヨークも『ロッキング・オン』の表紙で5351のTシャツを着てたことがあって。それくらい人気があった。それと「ダーク・ビッケンバーグ」とか、「ドリス・ヴァン・ノッテン」とかもよく見てたね。
I ダーク・ビッケンバーグの靴とかは欲しくても買えないんですけどね。「クリストファー・ネメス」(*9)はどう解釈します?
S ネメスね!「beauty:beast」とかその辺が好きだった人と親和性が高かった。(黒夢の)清春さんが好んで着てたからイメージが偏っちゃったんだけど。
編集部 90年代がすごいですね(笑)
I さっきから2年くらいしか経ってない(笑) さて、ここでasayanを出しますか。裏原系の話をそろそろ…
*6 MR:『ミスター・ハイファッション』誌。1980~2003年まで刊行。数少ない男性専門モード誌というだけでなく、その充実したボリューム、ハイレベルな内容は廃刊後15年近く経った今もなお高い評価を得ている。
*7 流行通信:日本で最も歴史あるモード誌のひとつ。1966~2007年まで定期刊行。当初は『森英恵流行通信』として「ハナエモリ」のPR誌的な役割だった。現在も『WWD』の別冊季刊誌として年に何度か発行されている。
*8 TRANS CONTINENTS:トランスコンチネンツ。90年代にミレニアムジャパン社が展開していたブランド。渋谷の明治通り沿い(現在のトゥモローランド旗艦店の場所)に直営店を構えていた。当初はクラブジャズミュージシャン的な要素が強かったが、90年代半ばから後半にかけてポップ路線へ方向転換、ロゴ入りのバッグなどが学生に大ブレイク。その後急激に失速し、商標の買収、売却が繰り返される。現在も、はるやま商事の一ブランドとして存在。
*9 クリストファー・ネメス:英国のデザイナー。2010年死去。1986年よりロンドンから東京に拠点を移し、90年代にはカルト的な人気を誇った。ジョン・ガリアーノをはじめファッション業界にも多くのファンを持ち、その中の一人であるキム・ジョーンズはルイ・ヴィトンの2015AWコレクションをネメスに捧げるコレクションとして発表。ネメス得意のロープ柄などをアイテムに用いた。
裏原はどうやって始まった?
井本(以下I) 95~6年ごろから若者がピチTを着なくなったんです。
齋藤(以下S) さっきのフェミ男ではピチピチのTシャツだったのが、裏原宿が流行って、いきなりサイズがデカくなった。
I 多分、これがひとつの兆しじゃないかと。94年夏のasayanの「BACK TO CHAOS」(*10)で藤原ヒロシとジョニオがチビTをぶった斬ったんですよ。
S この当時は「藤原ヒロシってなに?」って状態。ま、未だによくわかってないんだけれども(笑)
I アンダーカバーもフミヤ(*11)とかムラジュン(*12)が着ているって情報くらいしかない時代。
S 思い出した!僕がストリート系に触れた一番最初は小山田圭吾さんだ。コーネリアスだ。エイプのスタジャンを着て、スタジオのブースに座ってる写真がBoonに載ってて。それをクラスの友達が持ってきて「今これがヤベえんだよ」って。猿のマークがついたスタジャンを見て「何それ?」って。
I 「ア・ベイシング・エイプ」って言うんだよって。
S そう。「これ何なの?」「いや、よくわかんないけどすげえらしい。みんな着てるらしいよ」って。みんなって誰だよ?って(笑) ほんと覚えてる。
I (笑) この号がとんでもなくて、こうやって雑誌自体が特集でピチTとかネオパンクを提案してるのに、誌面の途中で突然「それが一番ダサい」って!
S ボンテージとか……。むしろ、昔はヒロシさんが着てたものだよね。
I で、それに対して、こんなダサいパンクファッションが流行ってるなら僕らがパンクを紹介する意味なんてないから、もう連載やめます。さようならって。これを見たとき僕は、誰なんだこの人って。アンダーカバーはかろうじて知ってたけど、藤原ヒロシは知らないので。
S 今でさえ謎なのに。当時は何をやってる人なのか、全然分からない。
編集部 結局、謎のままなんですか?
I 『丘の上のパンク』を読めば、だいたい分かりますよ。
S これが藤原ヒロシさんの半生を書いた本。ブームの裏には何かしら必ずヒロシさんが関わってたっていう。「GOOD ENOUGH」も藤原ヒロシさんのブランドなんだけど、当時は全部秘密にして。
I インポートを装ってブランドやってて。
S でも、みんな薄々感じてはいる。「藤原ヒロシが何かしてるらしいよ」って。
I 関わってはいるんだろうなって(笑) 当時のカルチャーに対しての影響力は今のカニエ・ウェストなんか足元にも及ばないくらい。
S だって、いま海外でストリート・ブランドを運営してる人はみんな藤原ヒロシのことを知ってるし、リスペクトしてるもんね。あと、藤原ヒロシが生み出したものもすごく多い。レッドウィングの白ソール(クレープソール)・アイテムだってそうだよね。
I あれはたしか、「ELT(Every Little Thing)」のカジさんってスタッフが関わった仕様で、元々黒いモックトウのアイリッシュセッターはビブラムソールしかなかった。それを白ソールに張り替えたものを藤原ヒロシがメンノンの連載コーナー「ア・リトルノーレッジ(A little knowledge)」で紹介して大ブレイク。ただその少し前にBEAMSがプレーントゥで白いソールやってそれが売れていて、伏線はあったんだよね。(雑誌を見ながら)あと、96年になるとこれが出てきます。パサディナ。
S そうそう、ビルケンといえば、パサディナだった! この頃のビルケンの人気アイテムはサンダルじゃなかったんだよ。藤原ヒロシのパサディナは黒アッパーの白ソールで。
I 「バーケンストックかビルケンシュトックか知らないけど」なんてうそぶきつつ流行らせた。93年にもソックスにサンダルブームでビルケンが注目されてたけど、ストリートには落ちてなかった。
S もう一冊、ヒロシさんの本を持ってきました。彼のスニーカーコレクションを集めて収録した一冊『Sneaker Tokyo vol.2 “Hiroshi Fujiwara”』。僕、実は当時「アンチ藤原ヒロシ」だったの。それは井本さんも一緒なんですよ。
I この本うちにもある。履き込んだエアウォークのエニグマがまたかっこいいんですよ。何だかんだで、当時アンチだった人間ほど今彼のことが好きになってるんですよね。
編集部 僕らにはそこまで凄みが分からないんですよね。もちろん、スゴイのは知ってますが。
S 「コラボレーション」を最初に始めたのは、藤原ヒロシさん。
I ダブルネームとか。
編集部 そうなんですね。別注みたいな?
I いや、違う。二者で一緒にものを作る。それまでそういう発想がなかった。そこら辺の感覚が非常に優れてるんだよね。
S 彼は三重の田舎の人なので、東京の人と比べて一生懸命さが違うっていうのもあるみたい。当時を知る音楽業界の人から聞いたことがあるんだけど、彼はとにかく一生懸命だったって。そこは田舎者特有のところがあるなって。たとえば面白いクラブ・イベントがあれば、必ず顔を出してる。で、お酒を飲まないらしい。飲まなくてもずっといると。でも表に出るときはそういう頑張ってるところを隠すんですよね。シレ~っとしてる。
90年代は、藤原ヒロシが何を買ったか、何を持ってるかがすごく注目を集めた。藤原ヒロシがひとこと言及しただけで、市場からモノが無くなるっていう。藤原ヒロシが目をつけてるものだったら、何でも売れた。
I 以前うちでも扱ってたインバーティアのダッフルコート、あのオレンジ色なんかは藤原ヒロシがいなければ日本で売れることはなかった。藤原ヒロシがエルメスのオレンジを着てて、あれに衝撃を受けた若者が当時たくさんいたんですよ。
一同 へ〜。
I だから、僕は認めたくはないけど、愛情の裏返しとしてのアンチ。
S ほんとそう、いやよいやよも好きのうち。アンチすぎて彼の言うことや出すもの、すべてを見てた(笑) 90年代にはいろんなスタイルがあったけども、それらすべて網羅していたというか。なんだかんだで、すべてに影響を与えてた人。彼が90年代のファッション全般を作ったっていうのは、あるんじゃないですかね。
I でも、みんなずっと何者なのかが分からない。
S 本人的には自身を音楽プロデューサーと呼ぶことが多いんだけど、何の音楽をプロデュースしてるのかはよく分からない。当時はそんなに情報がないし、クレジットを見なきゃわかんないわけだし、加えて彼が作るものは一般にヒットする音楽でもないから。藤原ヒロシって音楽やってるらしいけど、具体的には何をやってるんだろう?って思ってた。
I クラブキング(*13)のフリーペーパー『DICTIONARY』。この号の前に色んなミュージシャンの音源を入れたカセットテープがついてて、それで人気投票やったときに、一位は当然のように彼ですよ。
I このコメント欄のサービス精神のなさ。「もしあなたが、あと24時間だと宣告されたら?」「みんなに電話します」。「これから何をしますか?」「べつに、、。家にいます」。
一同 笑
S このスタンスって、本当に今も変わってない。この前バズった「TRUNK(HOTEL)」についての対談(via BuzzFeed)なんて、まさにこのスタンス。あの記事を読むと、「それそれ! それこそがヒロシだよ!」っていう(笑) ああいう皮肉っぽさこそ彼のスタイルで、昔のヒロシが戻ってきたっていう嬉しさがあった(笑)
I そうそうそうそう。「俺たちの知ってるヒロシが来た」って!
S 最近の丸くなったやつじゃなくてね。「ヒロシ万歳」みたいな(笑)
I 分かる。ほんとその通り(笑)
S 最近は彼の周辺にいた方々の90年代回顧録ならメディアに載ることはあるんだけど、我々みたいな“一般消費者”から見た藤原ヒロシは、とにかく「よくわからない人」だった。そこの視点はまだメディアに出てきてないところだろうね。
*10 BACK TO CHAOS:藤原ヒロシとジョニオ(UNDERCOVERデザイナーの高橋盾)の連載。1993年の『asayan』創刊号から続いていたが、本文中にもあるように第8回目に唐突な最終回を迎えた。
*11 フミヤ:藤井フミヤ。ミュージシャン。チェッカーズ解散後ソロにて活動。古くから高橋盾や藤原ヒロシらと交流があり、ブランドがまだ無名だったころからCDジャケットや広告、雑誌のインタビューなど様々な場面でUNDER COVERを愛用していた。
*12 ムラジュン:村上淳。モデル、俳優としての枠を超え裏原宿ブームを支えた一人。90年代には絶大な人気、影響力を誇った。俳優の村上虹郎は元妻であるミュージシャンのUAとの子。なお、UAは藤原ヒロシのプロデュースを受けてデビューしている。
*13 クラブキング:選曲家桑原茂一が代表を務めるプロデュースカンパニー。同社が1988年に発行を始めたフリーペーパー『DICTIONARY』は現在も刊行中。
「基本的に裏原は買えなかった」
I 実は、仙台で初めて「DOARAT(ドゥアラット)」買ったの僕なんですよ。祖父母が仙台に住んでて、たまたま「EMANUAL(エマニエル)」がドゥアラットに切り替わった日の開店直後に行ったんです。ちなみに持ってきたのは、エマニエルの3周年記念のTシャツ。当時愛聴していた東京No.1ソウルセットつながりでエマニエルユーザーだったから。やっぱりここも音楽から入ってる。
編集部 エマニエルは、全然ピンとこないですね(笑) 夫人のイメージしかない。
I エマニエル夫人がロゴマークなんです。
編集部 あ、やっぱりそうなんですね。
S 映画からブランド名を取るってのは多かったですね。洋画からね。必ず背景にファッション以外のカルチャーを匂わせて。音楽からブランド名を取るとか。
I 「NOWHERE(ノーウェア)」(*14)とか「ELT」とかはビートルズの曲からでしたね。
山田(以下Y) 実際、裏原ブランドの商品って買ってました?
I 南関東では裏原ブランドまず買えなかったんですよ。すぐ売り切れちゃうし、基本的に買えてる人ってほぼいない。
S 山形や仙台には多少ショップがあったんで、タイミングが良ければ買えてる人はいたんですけど、基本的には買えるものじゃないんですよ。ブランド側も積極的に売らないし。だって、お店に商品が無いんだもん! ブランド側が自分の友達に売ったり配ったりして、ハイ終わり。そういうコミュニティを作るだけで、商売っ気がまったく無かった。
I そう。でも、コミュニティの連中は着るわけ。そうすると、日本中の若者が「なんだアレは」と。
S 「なんだよ? どこに売ってんだよ?」と。でも友達内だけで、「自分たちが着たいものを作ってるだけなんで~」っていうノリ。
Y そのノリね(笑)
S 今のショップが言いがちな常套句はそこから始まったんじゃないかって思う。でもそこに憧れるわけですよ、地方の人間は。大量に作られているわけじゃないので。Tシャツなんかもプリントを一枚ずつやってるような作り方で。
編集部 でも、そこが大きくはじけたきっかけって何だったんでしょう?
S 僕の場合はさっき言った、小山田圭吾がエイプのスタジャンを着て、レッドウィング履いてたBoonの記事だった。
I さっきのasayan然り、94~5年ごろから芽はあって、スチャダラとかが、目につく形でエイプを着てた。でも、まだそこまで火はつかなかった。96年に入ってそれが急に全国で大流行して、もう入荷日を知った人がその何日も前からエイプやらアンダーカバーを買いにNOWHEREに並び出すみたいな。そして当日は買えた人たちが行列作ってる人たち相手に店の前で転売してる。
S 仙台にNOWHEREの支店の「ANYWHERE」って店があって、そこに土日に行って並ぶわけですよ、開店前から。開店しました→店に入ります→何も売ってない。
一同 (笑)
S 「なんなんですか?」と。未だに謎ですよ。店開ける意味あんのか?って。本当スカスカ。あるのはレジ前の小物くらい。あと、よく知らないブランドならあるの。「NEW WORLD ORDER」とか。友だちはそれを買ってた。よくわからないけど、ただANYWHEREに売ってるからってだけで買ってた。
Y 後の「VANDALIZE(ヴァンダライズ)」。
S そうそう!
I で、NOWHEREに限らず店員がめちゃめちゃなの。店に入れば舌打ちされる。店内で立ち止まると怒られる。「すみません、邪魔なんで止まんないでもらえます?」って。
S もう接客をしない。でも、それがかっこよかった。
I NOWHEREに有名な双子の店員がいて。
S いた!懐かしい、あの双子。カリスマ店員の走りじゃないすか? で、NOWHEREの周辺に店が出始めて。
I 裏原系がブームになる少し前に、あの辺に「ネイバーフッド」ができた。あとは「ランダム」、「バウンティ・ハンター」、「ダウン・オン・ザ・コーナー」とかが周辺にどんどんできて。
S あと、スケーター系だけどYOPPIさんの「HEC-TIC」もあった。で、そのうち「SOPH.」が出てきて。聞いたことないブランドが、あたかも元から人気があったかのごとく、突然ポコンと出てくる。
I SOPH.のディレクターさんは、当時A.P.Cのプレスとしてよく出てましたね。
S へー。清永さんね。我々地方の人間は、雑誌を通じて見てるわけですよ。突然新しいブランドが出てきて、行列ができてるような状況。「なんだこれ?」と。
I 「ナンバーナイン」のデザイナーも元々はネペンテスのプレスとして知られていたから。そういえばブランドがデビューした頃、ホフディラン(*15)が着てた。仲が良かったらしくて。
S あと、なんだろ、裏原…。
I 語るところが多すぎちゃって、どこから手を付けていいのか。
編集部 一番行ってた店とかありますか?
I 僕、裏原じゃなかった(笑) 。アンチだったから。当時僕自身は「ザ・ナインヘッズ」(*16)とか「ダイエット・ブッチャー・スリム・スキン」をよく着てました。
S 実は僕も友達が好きだったから付き合ってただけ。当時僕はまったく違う格好してて。BECKやジョン・スペンサーが好きで、古着の60〜70’Sの革ジャンと柄シャツみたいなのが好きだったんだけども、友達は裏原系だから、全然違う格好してNOWHERE並んでるわけ。だからリアルタイムで着てはいないけども、一緒に体験はしてる。
当時はファッションリーダーがいろいろいたから。モデルだったり、俳優だったり、ミュージシャンだったり。「誰が何を着ている」というのがすごい重要で。雑誌にそれが載ったら、ことごとく売れるみたいな状況があった。
編集部 良いなと思ったら、みんなすぐクレジットを見て買いに行くみたいな?
S そう。良い悪いの判断を消費者個人レベルではしていない。誰が何を着ているかが重要で、(インフルエンサーの)誰かが着てればOK。それが後の「キムタク着用」にもつながっていくわけですよ。
*14 NOWHERE:UNDER COVERとA BATHING APEの直営店。1993年、高橋盾とNIGOが原宿の裏路地にこの店を開いたことから裏原宿の伝説が始まった。当初はUNDER COVERとアメリカ買いつけ商品を並べたセレクトショップ的な業態だった。
*15 ホフディラン:音楽デュオ。90年代にサニーデイ・サービスと並び「フォーキー」ムーブメントの代表格とされていた。当初はメンバーのワタナベイビーのファッションセンスの無さがネタになるほどだったが、ブランド発足時よりナンバーナインを着用しはじめ、その点でのネガティブなイメージを払拭した。なお、もう一人のメンバーである小宮山雄飛に弊社代表の小関がインタビューされたことがある。
*16 ザ・ナインヘッズ:日本のブランド。退廃的なブリティッシュテイストを得意としている。90年代後半、同じ会社のブランドだった「ダイエット・ブッチャー・スリム・スキン」「ザ・ガブリエル・チェルシー」などと直営店であるラフォーレ原宿内『エドワーズ・スキルストア』とキャットストリート裏の『オクタゴン・アストニッシュ・アタック』で販売されていた。
現在もテイストを変えることなくブランドは存続しており、「ザ・ガブリエル・チェルシー」と共に経堂にアトリエショップを構えている。
そして、裏原が終わる
Y これ、99年のPOPEYE。鈴木あみ特集。
編集部 もうこの頃は裏原終わってるんですか?
I えとね、形が変わってる。
S 要するに売れすぎた。マスに下って、早い人は離れちゃった。それが98年かな?
Y 鈴木あみが着ているTシャツは「フィネス」(*17)のですね。
I フィネス!
Y フィネスも裏原の藤原ヒロシが関係しているブランドですね。
S そのあたりに大きくなりすぎて、99年には早い人は完全に離れてた。で、偽物も大量に出回ってた。
編集部 僕出身が熊本なんですが、中学校の頃に市街地の空き地に車がきて、エイプの偽物を大量に売ってました。
一同 笑
S 今まで言ったものがすべて1~2年周期で人気が出て終わってるんですよ。
編集部 「その後のストリートブームも裏原も一緒じゃないの?」という人も多いと思うんですが、実際何が違うんですか?
I 「SWAGGER」とかが出てくると旧来の裏原宿の文脈からずれてくるんですよ。また違うカルチャーと重なってくるから。
S ただ裏原宿に店を出しただけで「裏原系」を名乗り始めた。やっぱ、リアルタイム世代にとっては、藤原ヒロシ、NIGO、ジョニオを中心とした人脈で語られるべきところがあって。その友達のブランドが「裏原」っていう認識がある。それを真似たり、ただ乗っかってきた奴らは……。
I そう、違う。でも、パブリックイメージはそっちも同じなんですよね。
編集部 最後のラインってどこでしょう?
I 裏原の最盛期のぎりぎりだと、バウンティーハンターとかダウン・オン・ザ・コーナーとか?
Y BEAMSの本(BEAMSが2017年に発売した、BEAMS創設の1976年以降、年ごとに流行したファッションを紹介している書籍『WHAT’S NEXT? TOKYO CULTURE STORY』)によると、96年が裏原のマス期。
S それくらいの時期に藤原ヒロシさんがやってたのは「HEAD PORTER」。
I たぶん行列とかで苦情が来てたらしく、当時、向かいのお店に用があって、その後友人とその前で立ち話してたら道を挟んでヘッドポーターだか「レディメイド」(*18)だかの店員さんに怒られたことがあるんですよ。「そこで固まらないでください、邪魔です!」って。僕、どこにいても邪魔だと怒られてる(笑)
*17 フィネス:90年代半ばから藤原ヒロシが手掛けていたブランド。のちに「MORE ABOUT LESS」というブランドへ引き継がれた。
*18 レディメイド:1997年から1999年末まで現在の裏原宿のヘッドポーターの場所に存在していたショップ。藤原ヒロシがプロデュースしており、「フィネス」もここで販売していた。住所、電話番号非公開であったにもかかわらず、あまりの人気のため行列などで周辺から苦情が殺到した。
ヘルムート・ラングとジル・サンダー
Y BEAMSの本では98年がエレクトロで、ここで「ヘルムート・ラング」のペンキジーンズが出てくる。
I これはよく覚えてる!
S これは売れた。ヘルム-ト・ラングとジル・サンダーはミニマルで捉えられてたブランド。
編集部 この頃のラングかっこいいですよね。
S 今でも、あれほど良い色落ちをするジーンズを知らない。ラングのデニムは本当素晴らしかった。僕は1万7000円で買った。渋谷パルコで。
編集部 ラングと一緒にジル・サンダーですか?
I あ、97年で一緒だ。でも、ラングは94年に知ったから違う感じ。
S ラングもサンダーも同じセレクトショップで扱ってた気が。「VIA BUS STOP」とか。
I ラングに関しては最初はおそらくインターナショナル・ギャラリー・ビームス。そこからVIA BUS STOP。で、95年にラングに火がついて。
そういえば僕、メンズノンノのモデルのオークションに行ったことあるんですよ、高校生のとき。津野貴生、櫻田宗久にユアンといった当時人気絶頂期だったモデルたちが登壇して、私物をオークションにかけてた。そこで僕は角田修一だか津野貴生の出したラングのメッシュTを8000円で落とそうとして、敗北した(笑)。その頃モード系のお店では「SPACE」とVIA BUSが2大巨塔で。ポール・ハーンデン(*19)とかSPACEが一番早かったんじゃないかな。
Y 僕はSPACEで「グランドキャニオン」のTシャツ買いました。
S グランドキャニオンってSPACEで売ってたの? 意外と裏原の文脈に組み込まれてた記憶がある。
I グランドキャニオン、GDCが出てくるとDRAGON ASHとか絡んでるから、また話がずれてくる(笑)。「イグニッション回してGDC」なんて曲もありました。
S GDC、熊谷さん。
I 今もCPCMなどを手掛けてますね。
S 当時、スタイリストがブランドを立ち上げるというのが画期的で。かなり話題になったね、グランドキャニオンは。
Y これ、97年のPOPEYEなんですけど、スタイリストによるブランドが出てきた頃ですね。で、「リボルバー」が載っています。
S ARATA(井浦新)さんとKIRIさんですよね。
*19 ポール・ハーンデン:英国のアルチザン系革靴ブランド。手作り風の素朴な風合いながらエッジの効いたデザインで、現在も多くのファンを持つ。
「着こなし」ってなに?
S モノを大量に作らない、売らないのが裏原スタイルだった。重要だったのは「いかにレアか」ってこと。
I そうですね。
S どう着るかの問題じゃなかったんですよ。そう、あのときは「着こなし」の話題なんてほとんどなかったんだよね。
I 着こなしって言葉あったっけ?
S 無いかも。これ結構、根底的な90年代のポイントじゃないかな。「着こなしはどうでもいい」。
I 着回しなんて考えもない。
S 何を持ってるか。何を着てるか。そしてステイタス。ここすごく大事なポイント。これは意外と語られてないポイントじゃないかな。着こなしなんてどうでもよかった時代。……さすがに「どうでもいい」っていうのは極論だけど。
編集部 まだ打ち出されてないってことですか?
S それよりも「何を持ってるか」が大事だった。いかに希少か。それと、ディテールを語ること。
I そして、その物のバックボーンとストーリー。
Y 当時のファッション誌はこんな特集が多かったですね。誰が何を持ってるか。
編集部 「あなたのステイタス、見せてください」やばいですね(笑)
I そんなふうにみんなが裏原宿ブランドの服を欲しがっていたときでも、「裏原系」って言葉自体は当時そこまでなかった気がする。ELTなんて渋谷だったし。まあ、後追いで付けられた感じですよね。裏原のシーンは間違いなくあったけど、“系”ではなかった。
S “○○系”という風にマスに広がっちゃったときには終わってるんだよね。
I その後2000年代になってイノベーターがいなくなっちゃったんですよ。ディオール・オムのエディ・スリマン(*20)くらい。
S 90年代に流行ったブランドを振り返って、「ダイエット・ブッチャー・スリム・スキン」とか「ナンバーナイン」とか、いま全然思い出されないブランドたちを供養してあげたいのね、僕は(笑) でも、大きなブームを作らなかったからこそ、その後も地道に残ったっていうのはあるのかもしれない。
Y ブームになると消費されちゃうから消えてしまうんですよね。
S 「ブランド」っていうのはやっぱり希少価値を持ってないと。希少価値が90年代のメインテーマ。
Y 「レア物ゲット」。
I ポケモンじゃないですよ、ゲットするのは。
S だって、『GET ON』だしね。雑誌名も。レア物ゲットの時代。
編集部 あ、そういう意味のGET ONだったんですか?
S まああれは裏原後期だった気がするね。早い人が読んでる雑誌ではなかった。『COOL TRANS』もそうだね。
*20 エディ・スリマン:ファションデザイナー。「イヴ・サンローラン・リヴ・ゴーシュ・オム」の仕事で名を上げ、2000年から2007年まで「ディオール・オム」ディレクターを務めた。2000年代前半にラペルの細い黒のショートジャケット、襟の小さい白シャツ、極細の黒いネクタイに腰で穿いた極細のブラックジーンズ、白いスニーカーなどといったスタイルを提唱し、ファッションシーンに多大な影響を与えた。
90年代のシーンに藤原ヒロシが与えた影響
I ちなみに、この雑誌。96年の『H』です。Menswearが「スーパーラヴァーズ」着てる。
S メンズウェアっていう、最高かつ一発屋のブリット・ポップ・バンドがあったの。ネオ・モッズとも呼ばれて、これが「キレイめ/Valuable Boy」にもつながる。
I コマーシャルとかにも使われてたよね。
編集部 やっぱり、この頃は雑誌毎にスタイルがすごく分かれてたんですか?
S 意外と分かれてたと思いますよ。ちょっと時代を遡るけど、Boonは最初のヴィンテージ・ブームの立役者。Boonの後追いでGET ONやCOOL TRANSが、所謂レア物や通販広告メインで。あとメンズノンノは今と変わらずで、説明不要な若者向け王道感。藤原ヒロシの連載(A little knowledge)もあった。カジュアルより上品な感じ。(当時の)FINE BOYSもどちらかと言えば上品な感じ。僕は結構好きだったけどね。先述のABAHOUSEとかTRANS CONTINENTSはFINE BOYSに親和性が高かったかな。
あと、『smart』が鳴り物入りで出てきて。smartは裏原後期では絶大な影響力があった。創刊のときから読んでました。最初は月2回、隔週で出てたんですよ! さすがは宝島社、カルチャーの情報がものすごく多くて。「ちんかめ」(*21)もあってね(笑)。
編集部 僕は2003年くらいにsmart買ってたんですが、そのときも隔週でしたね。
S あ、そうなんだ!? ファッションとカルチャーをしっかりと紐づけて展開した雑誌なんだよね。
I そう。あと、asayan。asayanは、95、96年ごろから裏原寄りに変わっていったんですよ。
編集部 テレビのイメージしかなくって、雑誌があるって初めて知りました。
I 初期は番組とリンクしてナイナイとか清水ミチコ、テリー伊藤とかが出たりしてて、エンタメ寄りのファッション雑誌だった。
S やっぱ、「ラストオージー」からかなあ。もともとはかなりポップなカルチャー誌だったのが、どんどんファッション面を強化していって。
I 「ラストオージーⅢ」。藤原ヒロシとNIGOと高橋盾の連載。本当、ラストオージーが世界のファッションシーンに与えた影響はすごいんじゃないかなって。
S もう本当に。その見開き2ページだけであらゆる情報を日本全国に届けてた。ラストオージーの連載に関しては、藤原ヒロシとジョニオが昔話としてメディアで喋ってたりするけど、いち消費者がどう読んでたかっていうのは、その当事者としては分からないところだと思いますよ。
I もうこれが全てですよ、本当に。もう当時の最先端はこの4ページを見れば分かる。世界のどこよりもラストオージーが早かった気がする。
S ここでアートなんかが取り上げられてもよくわかんなくて。わかんないけど、一応は頭には入れておくわけですよ。(誌面を見ながら)あ、そうそう。藤原ヒロシのコンバース・オールスターと言えばこのオプティカル・ホワイト。真っ白なやつね。
I 生成りじゃない。
S そう、生成りじゃないんだよ。ヒロシさんと言えば、この真っ白のオプティカル・ホワイトなんだよ。
I このラストオージーは本当にファッションの歴史に残るくらいの巨大な影響を与えてた。キム・ジョーンズなんかも多分これ見てヨダレ垂らしてたと思う(笑) 当時、ナオミ・キャンベル(*22)も東京に来ると、「ヒロシ、東京案内して」って。ストリートの頂点に東京カルチャーがあった時代。東京が世界で一番早かった。だから多感な時期にこの頃のカルチャーを通ってる人は欧米へのコンプレックスがこれっぽっちもない。パリコレが、とかあまり響かない。
S 確かに。
I だって、当時東京の方がイケてたもん。
S 断然東京だった。90年代は東京だったっていうのも重要なキーポイント。
I ただ、カルチャーだとビースティ・ボーイズ(*23)あたりはまた別で。
S そうそう、この辺のシーンが好きならばビースティも取り入れやすかった(笑)
I そのへんが本質的にはミーハーなんですよね。
S ネットなんて無いから、自分だけでは情報がなかなか得られない。だから雑誌に載るような人たちが、どれほど田舎の若者のアンテナ代わりとなっていたか。アンテナの人たちが見つけてきたものを、消費者はそのまま吸収していくっていう。
I 神戸ってどうでした?
Y 僕は藤原ヒロシとか全然通ってないんですよ(笑) 裏原系のブランドやってるショップも神戸に1店しかなくて。なので、買いようもなかった。
I でも、僕もそう。買えなかったもん、でも嫌でも情報が入ってくるから。
S そう、買いようがないんですよ。「流行った流行った」と言ってるけど、基本的にみんな持ってないんですよ。だって買えないから(笑)
*21 ちんかめ:「おしゃれなヌード」を標榜し1997年より『smart』誌で連載されているグラビアのコーナー。現在はヌードではなく水着グラビアとして存続。
*22 ナオミ・キャンベル:90年代に巻き起こったスーパーモデルブームの中心に君臨していた黒人女性モデル。久保田利伸の代表曲『LA・LA・LA LOVE SONG 』に参加していることもあって、特に日本では他のスーパーモデルに較べ知名度が高い。
*23 ビースティ・ボーイズ:Beastie Boys。白人ヒップホップの草分け的存在ユニット。音楽だけでなくそのファッションセンスはずば抜けており、サイズの大きいadidasのキャンパスなどを靴紐を絞って履くスタイルやワークウェアをファッションに取り入れるスタイルなど、当時多くの少年たちに影響を与えた。人気ブランド「X-LARGE」の設立にはメンバーのMIKE Dが関わっていた。NIGO氏らとも仲が良く、裏原宿カルチャーにも大きく関わっていたとされる。
エピローグ
I カルチャー、音楽とファッションのつながりといえばですよ。これ、90年代末期に中央大学の学生グループが作ってたフリーペーパー『ボンクラ』。渋谷のHMVとかに置いてた。当時すごい感動しちゃって、友達とボンクラ編集部に連絡して、僕らも入れてくれと。で、中央に押しかけて、次の号には僕の漫画が載ってるんですよ。
一同 へ〜。
I それは恥ずかしいから持ってこなかったけど(笑)
一同 笑
I ここに来るとき久しぶりに電車で読み返してみましたけど、まさに今の服と音楽のつながりを分析できていて。聴いている音楽とかで人を分類するっていう。この「メジャー肉食系」がさっきのVボーイですね。この時代に「肉食系」という表現ですよ。早い。
ちなみに僕これ、「軟弱型」。「生活力のなさ、友達の少なさ、己の不健康ぶりをアピールし、自分軟弱であることを仕切りに主張する。実際はごく普通」。ところで、渋谷系とはまた別のお洒落系音楽だったアシッドジャズ(*24)って2人とも通ってないですか?
Y S 通ってないですね。
S まあ、ジャミロクワイくらいになるとさすがに聴いてます。何と言ってもジェイ・ケイが着てるadidasのジャージですよね。もちろん、それ以前にもジャージは流行っていたんだけど、ジャミロでドカ~ンとブレイクした感じ。
I フライングキッズ(*25)の『幸せであるように』のPVが90年なんだけど、adidasのジャージを着てるんですよ。YONCEみたいな(笑) これは若い人に感想を聞きたいなと思ってTwitterに貼ったのに、誰も反応してくれなかった(笑)
S 90年代のジャージの流行は、ヒップホップからの流れもあるんですよね。adidasのジャージは90年代に流行って、まさに今20年周期でリバイバル。
I でも、あれのYONCEから来た感じがすごいよね。
S 久しぶりに音楽と洋服がつながった印象があって、とても嬉しかった。90年代のリバイバルではあるんだけど、そういうのは無視しても、「ミュージシャン発の流行」っていうのがすごく久しぶりで、とても嬉しいですね。
I ちょっと、きた! って感じがして。
S 僕もまたジャージ探しちゃってますもん(笑)
I Suchmosは本当に幅広い世代に響いていて、大学時代の軽音楽サークルで一緒だった友人がうちのお店に遊びに来てくれたときに、「ヨンスみたいなジャージないのか?」って(笑)
一同 (笑)
S 昔買ったadidasのジャージ、売らなきゃ良かったと後悔してる。古着のジャージ、今は一着だけ持ってるんだけど、着てもなかなかYONCE風にならないの。ただのジャージを着たおじちゃんになっちゃうんだよね(笑) あの雰囲気、この歳になるとなかなか出せない。
一同 (笑)
S ちなみに、ジャージを終わらせたのは「ゆず」だと思ってますけどね。ゆずがデビュー当時にジャージを着てて、あれで売れたときにファッションとしては終わったんだなって。
I 「なんでだろう~」もじゃないですかね。
S ジャージが、だんだんお笑いの要素が強くなってきた。
編集部 それが何年くらいなんですか?
S それが90年代末くらいじゃないですかね?
I ゆずは99年かな。「なんでだろう」が、2003年か。
編集部 「なんでだろう」も覚えてるんですね(笑)
*24 アシッドジャズ:1980年代にイギリスのクラブシーンから派生したジャズ。同ジャンルに特化した同名のレコードレーベルも存在する。特に決まった形式はないが、総じてダンスミュージックとしての要素が強い。代表格はブラン・ニュー・ヘヴィーズ、ジャミロクワイ、インコグニート。日本でもUFOやモンド・グロッソなど、現在まで活躍を続けるユニットが登場し、ファッションやカルチャーに敏感な層に人気を博した。
*25 フライングキッズ:日本のバンド。『イカすバンド天国』3代目イカ天キング。代表曲『幸せであるように』をはじめとして当初はファンク要素が強かったが、のちにポップ路線へと転向した。
お三方の90年代的アイテム紹介
左から山田氏、齋藤氏、井本氏
【着用の90年代的アイテム紹介】
▼山田
・Tシャツ:COMME des GARCONS PARFUME(90年代はプレミアが付いていて超高値。後年知り合いから購入)
・パンツ:Johnbull(ヴィンテージLevi’s 501レプリカ Johnbullは他のレプリカブランドに比べてちょっと安かった)
・スニーカー:NIKE AIRMAX 270(復刻版)
▼齋藤
・Tシャツ:95年製 LAドジャーズ 野茂英雄Tee(古着/SALEM SPORTSWEAR製/made in USA)
・ジーンズ:90’s Levi’s 501 BLACK(古着/made in USA)
・スニーカー:PRO-Keds ROYAL PLUS 通称「ラスト・コロンビア」(made in Colombia)
▼井本
・シャツの中に着たTシャツ:DIET BUTCHER SLIM SKIN(97年ごろ購入。ブランド発足時のもの)
・スニーカー:VANS Chukka(made in USA。学生時代に近所のジーンズ店で5000円程度で購入)
・バッグ:OVERLANDの”スパイダーウェブ”(復刻品)
編集後記
90年代がすごいのか、お三方の話が長かったのか(笑) この座談会、全く終わりが見えず、結局居酒屋で5時間ほどずっと喋りっぱなしでした。でも、「まだまだ語り足りない」というのが本音とのこと。それほどまでに90年代のシーンというのは語るところがいっぱいあるようです。もっと詳しいお話を教えてほしい方はぜひTwitterでこのお三方に話しかけてみては? きっと、120%で返してくれるはず…。